前回指摘した問題は「なぜ青い鳥はいつもすぐに青い鳥でなくなってしまうのか?」ということです。
この原因はどうも人間の脳の認識能力から来るようなのです。
私はある存在から「カーネル(核)」と呼ばれる数学上の概念を説明されました。
カーネル(核)というのは写像(変換)の特徴を表すものです。
大雑把に説明すると、カーネル(核)とは写像(変換)によって「欠落してしまう部分」のことです。
私は最初この数学的な概念を説明されましたが、私の理解力が乏しいせいか
そのときには、これが何のことやらさっぱり理解できませんでした。
この数学的な説明では、私が理解出来ないことを悟ったせいか、
その存在は私に別のビジョンも見せてくれました。
それは手羽先(焼き鳥?)が調理されるプロセスでした。
このビジョンは私でもすぐに理解することが出来ました(笑)。
手羽先の元は鶏(鳥)です。
鶏は生きており、歩き回ったり、餌を食べたり、排泄をしたり、繁殖する動物です。
しかし人間はこのような生きている鶏(鳥)を生きたまま食べる訳ではありません。
人間は生きている鶏を、絞めて殺して解体し、焼いてから食べるのです。
この「生きている鶏」を「おいしく焼いた手羽先」に変える(写像・変換)ときに、「何か」が外へ出て行って、失われます。
簡単に言うとそれがカーネル(核)なのです。
つまりこのカーネル(核)とは「いのち」のことなのです。
これはどういうことかと云うと、
例えば人間が「高次元の意識(神)」を理解しようとするときに、どうしてもそこから「肝心な部分」が抜け落ちしてしまうのです。
これは脳の認識機能が持っている根本的な限界で、だれもそれから逃れられないのです。
生きている鶏は食べれないので、焼いて調理しますがそこでどうしても「いのち」がどこかへ出て行ってしまいます。
それとおなじようなことが神を理解しようとしたときにおきるのです。
このように人間が神を理解するときは、どうしても「核抜き」「いのち抜き」のものになってしまうのです。
これが「青い鳥を捕まえたと思っても、すぐに青い鳥でなくなってしまう理由」です
人間がどうしても頭で理解できないのは、神の核である「いのち」なのです。
「いのち」は無限であり、絶えず成長し、絶えず発展します。
それは根本的に「脳が理解出来るような代物」ではなかったということなのです。
今回のお話はこのくらいにしておきます。
次回の配信では別の体外離脱の体験談をご紹介しながら、
生きている神の実体にさらに迫っていこうと思います。
お楽しみに!